板橋区議会議員 井上温子公式ウェブサイト

  1. ご挨拶
  2. プロフィール
  3. 生い立ちと活動
  4. 井上温子Q&A

ご挨拶

こんにちは。井上温子です。
20歳からまちづくりの活動を始め、26歳で板橋区議会議員に初当選。
板橋区議会で唯一、4年間無所属で活動をしてきました。無関心、孤立、少子化、高齢化といった複雑な課題を解決するには、私たちの「暮らし方」から、工夫が必要です。「世代や国籍、障がいの有無をこえ、人と人とが出会う『地域の交流拠点』があれは、地域に仲間が増え、結果、様々な地域課題が”自分事”となる」、「一人暮らしや核家族化が進む中、プライバシーを守りつつ、家事や子育て、介護を地域でシェア出来る仕組みづくりが必要では」。
そんなことを考え、実践と議員活動をしています。シェアする暮らしから、板橋の空気を変え、「一人ひとりの色、かがやくまち」を目指していきます。

ご挨拶

プロフィール

井上温子 (いのうえあつこ)

生年月日
1984/10/22
本籍地
板橋区
居住地・事務所
高島平

経歴

2003年
東京都立北多摩高等学校卒業(在学中、陸上部にて関東駅伝・国体に出場)
2003年
大東文化大学環境創造学部入学
(在学中、オーストラリアへ留学/高島平の地域活性化の活動に参加/中板橋の
コミュニティカフェ立ち上げに関わる)
2008年
同大同学部事務室へ就職、みらいネット高島平事務局を担当(コミュニティカフェ運営等) 
2011年
NPO法人ドリームタウンを設立し、代表理事。
26歳の時、区議会議員初当選(無所属)
2013年
同NPOにて地域リビング プラスワン開設
2014年
いたばしコミュニティスペース連絡会立ち上げ
プロフィール

生い立ちと活動

子どもたちは悪くない、
環境が良くなかったんだよ。

私は、父親が児童自立支援施設の職員だった関係で、0歳から10歳まで、東京都立誠明学園の敷地中にある職員寮で育ちました。(児童自立支援施設:不良行為をなし、又はなすおそれのある児童及び家庭環境その他の環境上の理由により生活指導等を要する児童を入所させ、その自立を支援し、あわせて退所した者について相談その他の援助を行うことを目的とする施設)誠明学園では、施設のお兄さんやお姉さん達に可愛がってもらい、また時々園に遊びに来られる障がい者の方々と身近に接しながら過ごしました。父はいつも私に「子どもたちは悪くない、お家の状況が大変で、どうしても親が育てられなかったり、気持ちを受け止めてもらえることが出来なかったりと、環境があまり良くなかったから、ここで過ごしているんだよ」と言っていました。児童自立支援施設は、不良行為をしていたり、生活指導を必要としたりする子が過ごす施設でしたが、父親の上記のような言葉から、児童養護施設との違いを明確に知ったのは、大人になってからのことでした。今思うと、この頃の経験から、分け隔てなく誰とでも話せたり、何か問題があったら、まずその人の背景を考え、環境を改善していこうという行動の仕方を学んだように思います。

子どもたちは悪くない、環境が良くなかったんだよ。

人生初の挫折

小学校1、2年生までは内気で引っ込み思案でしたが、3年生の頃から、仲良しの友達ができ、運動も勉強も得意だったので、活発になっていきました。中学生から陸上を始め、800メートル走の学校記録を作るなど、陸上に打ち込みました。高校では、当初「インターハイを目指そう」と期待され、1年生では関東駅伝に2年生の夏には山岳競技の縦走で国体に出場しました。しかし、2年生の冬、関東駅伝の出場がかかった大会でアンカーを任されましたが失速し、出場を逃しました。このときのショックは大きかったのですが、なんとか持ち直しかけた3年生の時、膝の靭帯を損傷し陸上をやめることになりました。当時の私は、陸上が全てにおいて中心にあり、進路も体育大学に行くつもりでしたが、実技試験を受けることもできない状況で心がからっぽになり、道を見失いました。自分に期待してもらえない状況に、「所詮、コマにしか見られていないんだ」と、人を信じることができなくなっていました。周囲への嫉妬や劣等感から、精神的に不安定になり、人生で一番荒れた時期でした。「ただ、自分を見てほしい……」あの頃の私は、そう思っていたのだと思います。人生で初めて味わった挫折でしたが、どん底に落ちてこそ、見えたこともあり、とても大切な経験をさせてもらったと思います。

人生初の挫折

「コミュニティスペース」との出会いと地域のつながり

無気力なまま大学に進学した私ですが、3年生のとき、たまたまゼミで高島平の地域活性化のフィールドワークで学び合い教室を開催したり、コミュニティカフェに携わったりしたことから自分自身を取り戻していきました。「金銭を介するビジネスではなく、人と人とのつながりの中で『ありがとう』と感謝されること」が「役に立てたという実感」となり、自己肯定感を回復させていきました。地域の中に、世代を超えた仲間ができたことで、無機質に見えていた団地が、大好きな場所に変わっていきました。 受け身ではなく、主体となる場が、世の中には少ないことを実感し、人と人とを結びつける場がもっともっと増えたら、私のように笑顔を取り戻せる人が増えるかもしれない。そしてきっと町全体が活性化して良くなっていくのでは……、この頃から、私の中で「コミュニティスペース」は大きなキーワードになりました。その後、中板橋のコミュニティカフェ立ち上げに関わったりしながら大東文化大学を卒業し、同大学の事務室に就職。高島平のまちづくりでコミュニティカフェ運営の仕事に就くことになりました。

「コミュニティスペース」との出会いと地域のつながり

26歳で初当選

高島平のまちづくりに関わる中で、いろいろなアイディアが湧きました。しかし、行政は、「若者の地域参加が重要だ」と様々な文書で書くものの、実際には、廃校になった学校の跡地問題や地域会議など、全く意見を聞く場に入れてもらえない状況でした。「こんなんだから、行政だって政治だって、期待したくないんだよ。投票率なんて、あがる訳ないでしょ。何も変わらないんだから。私は、地道にNPO活動でまちを良くしていきたい。」そう思っていました。しかし、次第に、「行政にも政治にも期待したくない」、そう思ってしまう日本社会の仕組みそのものを変えなくては」と思うようになりました。期待できて、みんながまちのことを真剣に考えたり、まちのことを提案したりしたくなるような、そういう形を目指したい。選挙直前の2010年12月に、ふと、いろいろなフツフツとした想いが爆発し、「もっと、まちにインパクトのある仕事がしたい!議員になっちゃおうかな!」と立候補を決意、2011年3月、大東文化大学を退職しました。メイン政策は、「地域の交流拠点を小学校区53カ所に」。周囲は驚きましたが、多くの地域の仲間たちが駆けつけて手伝ってくれ、26歳で初当選することができました。

26歳で初当選

NPO活動をする議員として

長年、無所属が当選してこなかった板橋区での議員活動は、野次を飛ばされたり、嫌な思いもたくさん味わいましたが、会派や政党に入らずに、政策ベースで議論し、賛否を表すという信念を徹底して貫いてきました。2013年には、自身が設立したNPOにて、高島平にコミュニティスペース「地域リビング プラスワン」を開設、さらに、板橋区内のコミュニティスペースの方々一緒に、連携し情報共有や提案を行っていくための「いたばしコミュニティスペース連絡会」を立ち上げました。当初は「地域の交流拠点を小学校区につくるって不可能でしょ!」と笑われたことも多かったのですが、今やコミュニティスペースは、地域のつながりの希薄化やこどもの貧困、介護問題やマイノリティの生きづらさなど、現代社会における複合的な社会課題を解決できる可能性を持つ場所として、注目を集めています。2015年4月には、無所属で2期目の当選を果たしました。目標は無所属議員を増やし、議会構成を変えたいという想いがありますが、夢物語ではなく、それを現実にするにはどうしたら良いのか……。成果を出さなければ、というプレッシャーに戦いながらも、地域の人たちの笑顔に励まされ、「一人ひとりの色、かがやくまち」を目指し、日々、奮闘中です。

NPO活動をする議員として